名誉園長の部屋
先日、日本でも指折りの人気水族館の新江の島水族館、下関市の海響館など3館がJAZAを退会したとの報道があり、これから水族館ばかりでなく、動物園もどのようにこれらのことを考えるべきなのかと思ってしまいました。
この退会に関して、報道のみの情報では詳しい内容や館の事情を推量することができません。しかしイルカや動物を取り巻く環境を私論として開陳することは許されることだと思い、筆を執っています。
通常では知りえない情報を、生き物を通して広く一般に周知するという動物園と水族館の役割は同じでしょう。しかし動物園の生き物は遠くの地(アジアやアフリカなど)に求めているのが実情ですが(地域の生き物も飼育はしていますが)、水族館の生き物はそのロケーションにあった環境から魚類その他諸々の生き物を採取し、動物園と違って、いわば水族館は地域に根差した施設だということができるでしょう。それが故に見失ってしまうものも実は多いのです。敢えて批判を受けることを承知で私論を展開するつもりです。
日本は世界でも6番目に長い海岸線を誇る国です。この長い海岸線は豊かな生産物を国民にもたらし、海からの生産物によって、陸上の動物より圧倒的に高い比率で蛋白質の供給を受けていたと言えます。豊穣の海という感覚は、たぶん太古の歴史より私たちが受け継いだものでしょう。しかし海の持つ生産力は太古も現在も変わらない(事実はそうでもないでしょうが)にも関わらず、日本の人口は8世紀に500万人程度だったのが、大正期にはその10倍の5000万人へ、ついに昭和42年には1億人に達し、爆発的な人口増加に海の生産は追いつかず、日本国民の海洋生産物に対しての需要は過剰となり、勢い沿岸から近海に、そして遠洋へ、ついには南氷洋や北氷洋へとその糧を求めたというのは容易に理解できます(ちなみに農林水産省の資料では昭和40年には国民の鯨肉消費量は2.1㎏でしたが、平成2年のデータは0.0㎏となり現在に至っています)。しかし、日本人にとって、いつも海は豊かな恵みをもたらすものというイメージが定着していたため、家畜で見られるような蓄養技術の発達が遅れ、海洋生産物を求め外洋へと出て行きます。それは上に記しました。
海外から見ると(けだし客観的な見方です)、日本人は獲り尽くすと他へ移動し、獲り尽くすと。そのように映るものです。クジラもイルカも魚類という見方を私たちはしています。果たして私たちの感覚は正常なのでしょうか。たとえそれが魚類であったとしても、蓄養の試みなしに自然からの略奪(ちょっと過激的な言い方かもしれませんね)は許されるのでしょか。
水族館の弱点は、実はここにあります。あまりに身近すぎて、しかも漁撈という文化的な下地も相まって、イルカを含めた魚類に対する思いやり(実は福祉ですが)が欠けているのではないかと思われることです。消耗した(あるいは、された)魚類は補えると思っているように感じます。それは極端な言い方をすれば命の軽視にも繋がる恐れがあります。そのような非難にはどのように応えればいいのでしょうか。論理的回答を求められるところです。
私たちは自らの立場から事象を見ています。別の立ち位置があることを知らないということの方が多いように思います。それは全く真っ当でしょうが、見えないところの方が多いのだとは気が付きません。擬人的な方法は排除したいと思いますが、このように簡単に考えることはできないでしょうか。もし、あなたが魚(あるいはイルカ)という当事者ならば、その環境は満足するに足るものですか、という思考方法です。つまり私たちは動物を飼育しているという立場ではなくて、私たちは人間に飼育されているという立場で考えるということです。主語と目的語を入れ替えると見えるものは違ってくるのではないでしょうか。
当初、私がお断りしたように、退会を決めた館が魚を消耗品と考えているということを言うつもりはありません。このようなことは動物園でも起きています。それは最も分かりやすい動物で喩えるならば、ゾウがいいかもしれません。もしゾウが動物園からいなくなったら(死亡等で)市民のみならず動物園人もゾウを飼いたい(!)と切望するのでしょうね。でもその環境は、私(ゾウ)が住むに相応しい環境なのでしょうか。環境というのは何も広さだけとは限りません。私の家族(ゾウの群れ)も、私が私として存在するための環境(社会的環境)です。暖かい気候も私に適した環境です。食べ物にも気を配って欲しいと思います。私たちは自然下では多種多様な植物を食べています。単一の食べ物では私は満足できません。我儘で言っているのではないのです。私の体はそのように進化してきました。だからぜひこれらのことを考慮して欲しいのです。
現象は、かくも動物の本質に迫る深刻な問題であることを暗示しています。