名誉園長の部屋
到津の森公園が誕生し10年が過ぎました。前身である到津遊園から数えると80年になります。
どこででも飼育されている動物たちをどこにでも飼育されていない環境で見てもらおう、知ってもらおうとこの10年間は手探り状態でした。今、木々や草花に囲まれた動物たちのいる到津の森公園。やっと北九州市の地に相応しい動物園の姿が見えてきたような気がします。
平成12年到津遊園の閉園を園長という立場で経験した時、それまで持ち続けた動物園に対する概念を全否定されたようでとても不安でした。動物園は永遠に子どもたちの夢をかなえる場であり、そういった施設はなくなるはずがないと思っていました。しかしながら私自身は当時そのような場を子どもたちに積極的に提供していたわけでもありません。ただ動物園がそのような存在なのだという感覚的なものでした。つまり動物園その存在が子どもたちを育てると。しかしそれは幻想なのです。私たち一人一人に子どもたちを育てているという実感がなければ、そのような場を提供できるはずがありません。
新しい動物園を築くということは過去の栄光や役割をひきずることなく、新しい価値観を築くということではないでしょうか。今、やっとその答えを見つけたような気がします。他所で評判になった施設でもなく、その展示方法でもなく、この地とこの地に生きる人々と共にある動物園を創るということは、全く新しく起業することと同じだと。ニーズはあるのか、マーケットはあるのか、土地柄はあっているのか、トレンドに沿っているのか、自己経済力はあるのか、そして共に歩む人はいるのか。考えることは山ほどあります。
私たちが目指し、目途とする動物園は子どもたちを育てるばかりでなく、スタッフも、そして地域の人々も育てる場でなくてはなりません。かつてのようにその存在だけで役割を果たしていた時代とは違うということを実感すべきだと思っています。まさに歴史は生きていて、動いているのです。ただ立ち止まっているのなら、時という汽車に乗ることはできません。
実はこの記事を書くにあたって伏線があります。先日、京都大学での「国立動物園を考える会」において、私は閉会時にこのような発言をしました。「京都に動物園が必要ですか。私にはそれが分かりません」と。京都市が京都に動物園が必要だとするその理由は何でしょうか。そのことをはっきりと市民にもそれを取り巻く人々にも発信しなければなりません。少し乱暴ないい方であったろうとは思います。しかしあるが故に尊いわけではありません。大切なのはその生き方、生きていく目標や目的であろうと思っています。それは動物園でも人の生きざまでも同じではないでしょうか。
私にとって古き動物園観が否定された時、新しい自分が生まれたような気がしました。
そう、生きていく目標を与えてくれた。