名誉園長の部屋
トイレの前であべを待っていた。長い…。
8月16日、絵本画家あべ弘士は熊本県山鹿市の酒蔵跡で子どもたちに「仮面行列」というワークショップをしていた。
その打ち上げの食事処でのことである。彼は焼酎、私はジンジャエール。これで十分酒席に耐えうる自分の体質が怖い。あべはいささか酩酊状態でトイレに立った。私も水腹で彼に続いた。
トイレは一ヶ所で彼を待った。いっかな出て来ない。もて余し玄関から外に出ると、大通りでは仮設スピーカーで「よへほ~、よへほ~」と灯籠踊りの音頭を流している。戻ってもまだあべは出てきていなかった。
「大丈夫か?」と声をかけようと思ったとたんに戸が開いた。「お~、長いので心配したぞ」。「岩野、ちょっと来い。トイレの中に蛙がおる」。「蛙?」。「な、いるべ!」。北海道弁になっている。トイレは洋式でガラリの窓が一つ。蛙を飼える(ちょっとダジャレ)ような水槽も見えない。水のあるところは便器の中と流すために貯める水槽だけだ。耳をすますと確かに蛙の鳴き声がする。しかも鳴き交わしているようにも聞こえる。
この蛙で少し酔いもさめたあべは言う。「な!、な!」。私の尿意は失せた。ああ、よくある電子音だ。トイレの中のものを全てひっくり返して底にスイッチがあるかどうか調べてみた。が、無い。鳴き声を出すようなものが無いのだ。振り返るともうあべはいない。
通りがかった仲居さんに尋ねた。「トイレの中で蛙の声がするんだけど」。「ああ、それね、トイレの外に小さな川があってそこにすんじょるの。最初一匹じゃったけど、最近は二匹おるみたいね」。「外の小川?…」。そうか、外の小川か。しかし外というよりむしろこのトイレの中で鳴いているような気がする。窓に耳を近づけてもその声は大きくならず、トイレの中の方が大きいのだ。仲居さんの話は冗談で、このトイレの中に秘密がある。蛙が住めるとしたらこの陶器製の水洗用水槽…。蓋が持ち上がらない。しかし、ここはいつも真っ暗。トイレの下の方で声がしているようだ。配水管?それはないな。私がトイレの中でこれだけ大騒ぎをしているのに蛙は鳴き続ける。
「仲居さん、トイレの裏手に回れる?」。「その裏木戸から行けますよ」。「蛙、見てみたいんよう」。トイレの裏手に出た。小川がある。蛙の声は確かにそこから聞こえる。「見えますかあ」。「塀があってよく見えない」。「勝手口の電気点けますねえ…」。
あ!いた。ヒキガエルが二匹。明かりを点けると鳴き声はとたんに小さくなった。
トイレの中の蛙の正体だった。
この事実を知らないあべはきっとこう言うのだ。「山鹿ではトイレで蛙を飼うちょる」。
それもいいかもなあ。