名誉園長の部屋
特別な命
2012年7月12日
私たちは両親や子ども、そして愛する人など身近な人の死を迎えると、かけがえのない命を感じるものです。これは自分にとって特別な命といってもいいかもしれません。
命に軽重があるはずはないのに、その重みが人それぞれによって違うのは関わり合う深さなのでしょう。
昨日、TVを見ながらぽつんと言った友人の言葉が耳から離れません。
「パンダの赤ちゃんにこれだけの愛情を注ぐ人たちと、道ばたで子猫が死んでいくのを知らん顔して通り過ぎていく人が同じなんて信じられない・・・」。
私たちは道ばたの子猫に多くの愛情を注ぐことはできません。しかし、家の中で飼われた子猫は表現しがたいほど可愛い。同じ子猫なのにこの命の重さの差は自分に基づくものであることは明白です。同じ子猫だから同じ重さのはずなのに。
動物園で生活する私たちは多くの動物の死を見てきました。悔しくて眠れない日もあった。その悔しさや悲しみは次のエネルギーとして蓄積されるものです。希少動物であってもそうでなくても動物の死に違いはありません。
以前、プレーリードッグを盗まれたことがあります。その中には妊娠していた個体も含まれました、飼育係員は涙ながらに「妊娠しているお母さんだけでも戻してください」とTVに訴えかけました。この小さな命は他の大型動物や希少動物の命と同じものです。
パンダの命が軽いのだということでも、野生動物の命はそういったものだというつもりもありません。
しかし、このエネルギーをもっと有効に使えば、私たちの住む環境も(動物も人間も)変わるはずなのにな、と「パンダ狂騒曲」を蚊帳の外から見て、思っていました。